夏休みがおわり、小説はラストスパート
芹澤です。
気がつけば短い夏休み(お盆休み)が終わりましたね。
コロナ禍でどこにも出かけられなかったですが、せめてもと思い、自宅の庭で花火とバーべーキューを楽しみました。
また、身の回りではセミファイナルを目撃する機会が増えてきましたね。どうか成仏してください…。
さて、つばさ文庫向けの2本目が(ほぼ)出来上がりました。
自身初の冒険ファンタジーです。
これまで特定の街を舞台にした異世界ファンタジーは書いたことがありますが、あちこちへ移動する「冒険もの」は初めてで、その難しさに何度となく頭を抱えました。
と言いますのも、場所を移動する度に起承転結をつけなければいけないのです。
そして全体の流れの中でも起承転結がなくてはいけないのです。
要は短編の連作ものと考えればいいのですが、いかんせんチャレンジしたことがありません。
いざ書き始めたところ、冒頭とクライマックスはすんなり決まりましたが、間に入るエピソードのひとつがどうしても浮かびません。
もうだめだ。
もう書けない。
何度も諦めそうになりました。
エアコンのない室内で汗を流しながらセミファイナル並みに足掻いていました。
「諦めちゃえば?」という悪魔のささやきとも戦いましたし、
なんでこんなに苦しんでいるんだろう、と自分に問いかけたりもしました。
この苦しさは創作活動を経験した方なら分かると思います。
話は変わりますが、つい最近まで、小説には「才能」が必要だと思っていました。
書きつづける才能、諦めない才能、アイデアをだす才能、時間を作り出す才能…これらの才能はもちろん必要ですが、それだけではない、常人には気づけない才能があると思っていました。
そして、いつか私自身の作品からその才能を見出してくれる編集さんが世の中にひとりくらいはいるんじゃないか…そんな幻想を抱いていました。
が、とある方のツイートを拝見して間違っていたことに気づきます。
小説について、業界の人間にしか見抜けない「才能」みたいなものがあって、それが良い小説の9割を作っている。自分にもそれがあり、いつか誰かが見抜いてくれる……という夢を持つひとがいる気がする。実際には小説の9割は普通の努力でできていて、最後の1割が、運とか才能の取り分だと思う
— 栗原ちひろ「有閑貴族エリオットの幽雅な事件簿」重版出来! (@c_kurihara) 2020年8月18日
うわ、これ自分のことだ! すぐに思い当たりました。
この方は「こういう認識をしている人がいる。それは間違っている」という一般的な話をされただけですが、心当たりがありすぎて苦しくなりました。
確かにそうですよね。
考えれば分かることです。以前にも触れましたが才能がある人は三作以内に受賞するのですから、もし自分に才能があったとしても、10年経っても見つけてもらえない才能なんて何の意味もない。
この方の言うとおり、才能なんてないのでしょう。
実際に存在するのは努力や経験・知識だけ。
書きつづける努力、諦めない努力、アイデアをだす努力、時間を作り出す努力…才能を努力に置き換えればしっくりきます。
なので、努力するしかないんですよね。
こうやって自分を鼓舞するのもひとつの努力かもしれません。
つばさ文庫小説賞の締切は8月末。
上述の応募作がどんな結果になるのかは分かりませんが、いまできる努力を精いっぱいやります。
同じ賞に出される方、また、別の賞に取り掛かっているワナビの皆さま、暑い日々が続きますがコロナと熱中症にご留意の上、お互いに頑張りましょう。
それでは。
(以下、宣伝です)