「面白い」ってなんだろう?

エッセイ,執筆活動

 

芹澤です。

ワナビ卒業宣言(仮)をしたあと、ふと思い立って過去に書いた作品を読み返してみました。

その時に感じたことを書きます。

 

自作小説はアルバムである

たとえば学校の卒業アルバムをぺらぺらとめくっていてふと自分の写真を見つけたとき、その時々の表情や背景、周囲の様子から当時目にした風景や友だちとの会話をありありと思い出すことがあります。

自分で書いた小説も同じなんですよね。

賞の締切に向けて毎日パソコン・スマホに向かっていたこと、参考にした本やネット記事、当時仕事でイヤなことがあった…などなど、様々な記憶が蘇ってきます。

中でもとりわけ記憶にあるのはWeb連載していたときにもらった感想・反応です。

更新する度に読みに来て感想をくれる人、時々来てくれる人、ネガティブな反応を残して去っていく人。

一度も会ったことのない読者さんとのやりとりが自分の中に強く残っています。

いま見返すといくつか消えている感想もあるのですが、当時どんなことが書かれていたのか不思議と思い出せるものです。

 

読み返して「面白い」と思ったらそれを信じる

10年ワナビをしていると大量に小説を書き上げているものですが、自分が書いて「面白い」と思った小説って、やはり何度読んでも「面白い」んですよ。

ストーリー展開、キャラクター、世界観、どれもこれも面白い。

評価されなかったり受賞につながらなかったのでも、やっぱり面白い。

「面白い」=自分の「好き」なんだと思います。

 

でも結果が残せなかったときって落ち込みますよね。

ただそこで「面白くなかったのかもしれない」と思いつめるのはやめましょう。

 

面白い=好き

好きなものを自分で否定するのは辛い。

そもそも読んだり書いたりするのが好きだから執筆しているはずなのに、それ自体を否定してどうするんですか。

 

「好き」を小説に活かす

自分が「面白い」と思った作品が評価されなかった理由を考えてみましょう。

 

もしかしたら流行りじゃなかったのかもしれない。

応募したレーベルが求めていたものじゃなかったのかもしれない。

更新するタイミングが良くなかったのかもしれない。

1ページあたりの文字数が多くて敬遠されちゃったのかもしれない。

 

傾向と対策。

この辺りを見極めるのは難しいことです。

じっくり研究して対策を練らなくてはいけません。「敵」を知ることです。

たとえば森の中で野生のクマに遭遇したときは目を合わせたままじりじりと後ずさりするのが正解。

背中を向けて逃げる、死んだふりをする、戦いを挑む、は不正解。自ら襲ってくれと言っているようなものです。

(小説でこういうシチュエーション書くと「森なんか行くなよ」「異世界なのにクマいるの?」と突っ込みが入ったりします…)

 

管理人はここ最近、なにかに急かされるように次々と賞に応募していましたが、一向に結果が出ませんでした。

落選作を読み返してもちっとも面白くないばかりか、当時の「〆切が!誤字脱字が!もういやだぁあああっ!」という絶叫が文章から聞こえてきます。

でも、自分が本当に「面白い=好き」と感じていて、なおかつ、賞のカラーに合っていたものはキチンと結果を残しているんですよね。

 

小説は生の言葉以上に感情を訴えかけるものです。

焦ってテキトウに生み出したものは読者さんや下読みさん、ましてや編集さんにはいとも簡単に見抜かれてしまうでしょう。

 

ただ世の中には「どうしてこのレベルの作品が?」と思う小説があるのも事実。

すると自分の「面白い」が揺らいでしまうと思いますが、考え方が違います。

 

出版は商売です。

たとえ自分にはガラクタ同然であってそこに価値を見出してお金を出す人がいれば商売として成り立つんです。

何に価値を見出すかは人それぞれ違います。

使い終わったトイレットペーパーの芯を集めて夏休みの図画工作に使う人もいれば、河原のきれいな石をコレクションにする人もいて、私のように菓子類のきれいな包装紙や箱をとっておくよう人間もいます。

生い立ち・環境・考え方・家族構成・状況などで変わってきます。

ごちゃまぜにして「好き」を見失わないように。

 

自分のことは、いつだって自分が一番よく知っているはずなんですから。

あとは頭を使ってどう磨き上げるか、だと思いますが、そこが一番大変かもしれませんね(^^;)

 

いま悩んでいる方。

もうちょっとだけ頑張ってみましょう。

でも時々は休んだっていいんですよ。自分の中にある「好き」はどこにも逃げていかないですから。

 

それでは。

Posted by serizawa